なぜ「伝わらない」のか? ウィトゲンシュタインの哲学が教える、コミュニケーションの真実

「あの人が言っていること、全然理解できない…」
「常識だと思っていた言葉が、ある文脈では全く通じない」
「なぜ同じ言葉なのに、受け取り方がこんなに違うんだろう?」
私たちは毎日、言葉を使ってコミュニケーションを取り、世界を理解しています。
しかし、その言葉の意味や、コミュニケーションが成立するメカニズムについて深く考えたことはあるでしょうか?
なぜ、ある場所では「普通」の言葉が、別の場所では全く意味をなさないことがあるのでしょう?
20世紀を代表する哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein)は、その思想を大きく転換させ、言葉の意味が固定的なものではなく、私たちが言葉を使う「文脈」や「活動」の中にこそあるという画期的な考えを提唱しました。
それが、彼の最も有名な概念の一つである「言語ゲーム(Sprachspiel)」です。
この記事では、ウィトゲンシュタインの思想の変遷をたどりつつ「言語ゲーム」の核心を分かりやすく解説します。
そして、この哲学が、現代社会におけるコミュニケーションの誤解、組織内の文化、あるいは多様な価値観の理解にどう活かせるのかを探ります。
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインとは?20世紀哲学の巨人、言葉の謎に挑んだ生涯

ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨハン・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein, 1889-1951)は、20世紀を代表する最も影響力のある哲学者の一人です。その生涯は、哲学に対する並々ならぬ情熱と、自己批判、そして孤独な探求に満ちていました。

波乱に満ちた生涯と初期哲学
ウィトゲンシュタインはオーストリア・ウィーンの裕福な家庭に生まれ、工学を学んだ後、数学基礎論に関心を持ち、ケンブリッジ大学でバートランド・ラッセルの教えを受けます。
彼の初期の思想は、たった一冊の著作『論理哲学論考』(Tractatus Logico-Philosophicus)に凝縮されています。
この『論理哲学論考』では、彼は世界が「事実」の総体であり、言語はその事実の論理的構造を「写像(ピクチャー)」するものであると考えました。
そして「語りえないことについては、沈黙しなければならない」という有名な言葉を残し、哲学の多くは言語の論理的限界から生じる「擬似問題」であるとして、自らも哲学から距離を置きます。
しかし、彼のこの初期の思想は、ウィーン学団(論理実証主義)に大きな影響を与え、20世紀前半の哲学の方向性を決定づけるほどでした。
後期への転換と「言語ゲーム」の誕生
数年間の教職や庭師などの経験を経て、ウィトゲンシュタインは再び哲学の世界に戻り、自身の初期の思想を徹底的に批判し始めます。
彼は、言葉の意味が『論考』で考えたような厳密な論理構造に還元できるものではないと悟ったのです。
この思想的転換期に生まれたのが、彼の死後に編纂された主著『哲学探究』(Philosophical Investigations)であり、そこで中心となるのが「言語ゲーム」という概念です。
ウィトゲンシュタインは、言葉の意味は孤立した記号にあるのではなく、私たちが言葉を実際に「使う」こと、そしてその言葉が使われる「文脈(生活形式)」の中にこそあることを解き明かしました。
これは、言語の哲学だけでなく、心の哲学、知識論、倫理学など、広範な分野に革命的な影響を与えました。
ウィトゲンシュタインの哲学は、言葉の意味や理解のメカニズムを深く問い直すことで、私たちの日常的なコミュニケーションのあり方、さらには異なる文化や集団間での誤解が生じる原因を理解するための強力なツールを提供してくれます。
【章末まとめ】
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは20世紀を代表する哲学者で、初期の『論理哲学論考』では言語の厳密な論理構造を探求しました。しかし、後に自身の思想を批判し『哲学探究』において「言語ゲーム」という概念を提唱しました。これは、言葉の意味が、その「使い方」や「文脈(生活形式)」の中にこそあるという、言語哲学における画期的な転換でした。
「言語ゲーム」とは何か?言葉の意味が「使い方」と「文脈」によって決まるという革新的視点

ウィトゲンシュタインの後期哲学の中心概念である「言語ゲーム」は、言葉の意味に対する私たちの一般的な理解を根本から覆します。彼は、言葉の意味が、辞書的な定義や、それが指し示す対象(モノ)と一対一で対応するものではない、と考えました。
「言葉の意味は、その使われ方である」
ウィトゲンシュタインは、有名なテーゼとして「言葉の意味は、その使われ方である(The meaning of a word is its use in the language.)」を提唱しました。
彼は、言葉をまるで「道具」のように例えます。
ハンマーがその形によって意味を持つのではなく、それを「釘を打つ」という特定の活動の中で使うことによって意味を持つように、言葉もまた、私たちがそれを「使う」という活動の中で意味を持つ、というのです。
そして、この「言葉を使う活動」全体を「言語ゲーム」と呼びました。
言語ゲームの例:多様な「使い方」と「文脈」
「ゲーム」という言葉は、チェスやサッカーのような明確なルールを持つものだけでなく、子どもたちの「ごっこ遊び」のように、その場でルールが変化していくような活動も含みます。
同様に「言語ゲーム」も、多様な様相を呈します。
具体的な例:
- 建築現場での「レンガ!」: この言葉は、単に「レンガ」という物体を指すだけでなく、「レンガを持ってこい!」「レンガはここだ!」「レンガは足りるか?」など、その場の活動(積み上げ、受け渡し、確認など)と結びついています。この言葉の使われ方全体が、一つの言語ゲームです。
- 挨拶:「こんにちは」: この言葉の意味は、辞書的な定義だけでなく、顔を合わせて交わすという社会的な活動の中で意味を持ちます。知らない人に突然言っても通じないかもしれません。
- 冗談や皮肉: 文字通りの意味とは裏腹に、その場の状況や話し手の意図、聞き手の理解(共通のルール)によって意味が成立します。
- 科学用語、専門用語: 特定の学術分野や職場でしか通じない言葉は、その分野の「言語ゲーム」の中で意味を持ちます。
「生活形式(Form of Life)」との結びつき
ウィトゲンシュタインは、言語ゲームが単独で存在するのではなく、私たちが営む文化、習慣、社会的な実践といった「生活形式(Lebensform)」の中に埋め込まれていると考えました。
言葉は、私たちの具体的な生活や活動と切り離して意味をなしません。
異なる文化や集団では、異なる「生活形式」が存在するため、同じ言葉でも、その「言語ゲーム」が異なれば、意味の捉え方やコミュニケーションの成立の仕方も変わってきます。
これは、異文化理解や、組織内の部署間での「常識の違い」を理解する上で、非常に重要な視点となります。
【章末まとめ】
「言語ゲーム」とは、言葉の意味が辞書的な定義ではなく、私たちが言葉を「使う」という活動、つまりその「使われ方」と「文脈」によって決まるという考え方です。ウィトゲンシュタインは、この言葉の使用を「生活形式」と不可分なものと見なし、言葉は具体的な社会や文化、習慣の中で意味をなすとしました。
「家族的類似性」の概念:共通の「本質」がなくても、なぜ私たちは「同じ」と認識できるのか

「言語ゲーム」を理解する上で重要な概念が、ウィトゲンシュタインが提唱した「家族的類似性(Familienähnlichkeit)」です。これは、私たちが「ゲーム」という言葉で、チェス、サッカー、トランプ、鬼ごっこなど、一見バラバラに見える活動をなぜ「ゲーム」と認識できるのか、という問いから生まれました。
共通の「本質」ではない
私たちは通常、「〜とは何か?」と問うとき、その対象に共通する「本質的な特徴」や「定義」を探そうとします。
しかし、ウィトゲンシュタインは「ゲーム」という概念には、全てのゲームに共通するような単一の「本質」はない、と主張しました。
例えば、
- チェスには勝敗があるが、鬼ごっこには明確な勝敗がない場合もある
- サッカーにはボールを使うが、チェスには使わない
- トランプにはルールがあるが、子どものごっこ遊びはルールが常に変化する
これら全ての「ゲーム」に共通する唯一の属性は、見つけることができません。
重なり合う「類似性」
では、なぜ私たちはこれら全てを「ゲーム」と認識できるのでしょうか?
ウィトゲンシュタインは、それはまるで家族のメンバーに似ている、と考えました。
「家族的類似性」とは、家族のメンバーが皆、特定の共通の顔の特徴(例:鼻が高い、目が大きいなど)を持っているわけではないが、個々の特徴(鼻の形、目の色、髪の色、話し方など)が部分的に重なり合い、連鎖的に類似していることで、全体として「あの家族だ」と認識できるような関係性のことです。
同様に「ゲーム」という言葉も、個々のゲームが持つ特徴(ルールがある、勝敗がある、楽しむ、道具を使う、など)が複雑に、そして部分的に重なり合い、連鎖的に結びついていることで、私たちはそれらをまとめて「ゲーム」という一つの概念として認識できるのです。
概念の「開かれ」と流動性
この「家族的類似性」の概念は、私たちが言葉の意味を捉える際に、固定的な定義や本質を求めすぎることの限界を示します。
言葉の意味は、常に新たな事例や使われ方によって広がり、変化していく「開かれた」性質を持っている、というウィトゲンシュタインの洞察を浮き彫りにします。
これは、現代のビジネスにおける「イノベーション」や「リーダーシップ」といった言葉の意味が、時代や組織によって絶えず変化していく現象を理解する上でも非常に有効です。
私たちは、言葉の「本質」を探し続けるのではなく、その「使い方」や「文脈」の変化に敏感になることで、より柔軟な思考とコミュニケーションが可能になるでしょう。
【章末まとめ】
「家族的類似性」とは、ある概念に属するものが、特定の共通の「本質」を持つのではなく、部分的に重なり合う様々な「類似性」の連鎖によって結びついているという概念です。これにより、私たちは「ゲーム」のように一見バラバラなものを一つの概念として認識できます。これは、言葉の意味が固定的なものではなく、常に「開かれ」て変化していく性質を持つことを示唆しています。
「私的言語」批判:自分だけの言葉はなぜありえないのか? コミュニケーションの社会的基盤

ウィトゲンシュタインの後期哲学におけるもう一つの重要なテーマは「私的言語(private language)」の可能性を批判したことです。彼は「自分しか理解できない言葉」というものは論理的にありえない、と主張しました。この批判は、コミュニケーションが成立する基盤が、どれほど「社会性」に依存しているかを浮き彫りにします。
「痛い」は私的言語か?
ウィトゲンシュタインは、例えば「痛み」のような内的な感覚を指す言葉を例に考えます。
「痛い」という言葉は、私自身の感覚を表すのだから、究極的には私だけがその意味を知る「私的言語」ではないか? という疑問です。
しかし、彼はこの考え方を否定します。
もし「痛い」が私だけの私的言語だとしたら、私は今日感じた「痛み」が、昨日感じた「痛み」と同じ「痛み」であるかどうかを、どうやって確認できるのでしょうか?
外部からの基準がなければ、私はその言葉を正しく使っているのか、あるいは意味を間違えているのか、区別する方法がありません。
ルールは「公共的」である必要がある
ウィトゲンシュタインは、言葉を使うことは「ルールに従う(following a rule)」ことであると考えました。
そして、ルールは「公共的」である必要があります。
つまり、他者と共有され、他者によって確認され、誤りが指摘されうるものでなければ、そもそもルールとして機能しない、というのです。
もし自分だけのルールで言葉を使っていたら、それは「ルールに従っている」のではなく「ルールに従っているつもりになっている」に過ぎません。
例えば、一人で「この棒は1メートルだ」と決め、次の日に「この棒は1メートルだ」と言っても、それが本当に1メートルなのか、あるいは自分が基準を誤っているのか、他者との比較がなければ知る由もありません。
コミュニケーションの社会的基盤
この「私的言語批判」は、言葉の意味が、私個人の内面的な感覚や意図だけで成立するものではなく、他者との共有、確認、そして社会的な実践(言語ゲーム)の中にこそ基盤があることを明確に示します。
私たちは、言葉を学ぶ際に、他者との相互作用を通じて、その言葉がどのように使われるべきか、どのような文脈で意味を持つかを習得します。
「痛い」という言葉も、私たちが幼い頃に、怪我をして「痛い!」と言ったときに、親が「痛いのね」と反応したり、薬をくれたりといった社会的な共同行為(言語ゲーム)の中で、その意味を習得するのです。
このウィトゲンシュタインの洞察は、コミュニケーションの誤解が生じる根本原因の一つが、共通の「言語ゲーム」や「生活形式」が共有されていないことにあることを示唆します。
異なる文化や専門分野の人々が対話する際、彼らが異なる「言語ゲーム」をしていると認識することで、より深い相互理解へと繋がる可能性があります。
【章末まとめ】
ウィトゲンシュタインは「私的言語」、つまり自分だけが理解できる言葉は論理的にありえないと批判しました。言葉を使うことは「ルールに従う」ことであり、そのルールは「公共的」でなければならないからです。この批判は、言葉の意味やコミュニケーションが、私個人の内面的な感覚だけでなく、他者との共有と社会的な実践(言語ゲーム)の中にこそ基盤を持つことを明らかにしました。
現代社会におけるウィトゲンシュタイン哲学の応用:コミュニケーションの誤解、組織文化、多様性の理解に活かす知恵

ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という哲学は、単なる学術的な議論に留まらず、情報過多で多様な価値観が混在する現代社会において、私たちの日々のコミュニケーションや、組織・文化理解に強力な示唆を与えてくれます。
1. コミュニケーションの誤解を減らす:言葉の「使い方」に注目する
「あの人は何を言いたいのか分からない」
「どうして私の意図が伝わらないんだろう?」
このようなコミュニケーションの齟齬は、しばしば「言葉の辞書的な意味」だけにとらわれ、その「使われ方」や「文脈(言語ゲーム)」を無視していることから生じます。
2. 組織文化と「常識」を読み解く:見えないルールを可視化する
組織には、明文化された規則だけでなく「暗黙の了解」や「当たり前」とされる行動様式、つまり独自の「言語ゲーム」が存在します。
新入社員が戸惑う「会社の常識」は、その組織固有の「言語ゲーム」のルールがまだ習得できていない状態とも言えます。
3. 多様性理解と異文化コミュニケーション:異なる「生活形式」を尊重する
グローバル化が進み、多様なバックグラウンドを持つ人々と協働する機会が増えています。
しかし、同じ言語を話していても、出身文化や育った環境が異なれば、言葉の意味の捉え方やコミュニケーションの仕方が大きく異なることがあります。
まとめ:ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」を、あなたの「コミュニケーションの羅針盤」として
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の哲学は、言葉の意味が固定的なものではなく、その「使われ方」と「文脈(生活形式)」の中で流動的に形成されることを教えてくれます。
そして、私的言語がありえないという批判は、コミュニケーションが「他者との共有」と「社会的な実践」の中に根ざしていることを明確にしました。
このウィトゲンシュタインの洞察は、私たちが日々のコミュニケーションにおける誤解を減らし、組織や文化の「常識」を深く理解し、多様な人々と共生するための強力な「コミュニケーションの羅針盤」を提供してくれます。
言葉の「本質」を探し続けるのではなく、言葉の「使われ方」と「文脈」に目を向けることで、あなたはより柔軟で、より豊かなコミュニケーションを築き、複雑な現代社会を賢く生き抜くための知恵を得るでしょう。
あなたの周りの「言語ゲーム」を、今一度見つめ直してみませんか?